ほずみ綜合相談所

こちらは望む未来を引き寄せて理想を現実化するための総合相談所です。 運の流れを読み、ご縁に導かれ、人生を思い通りに生き、心豊かに過ごす。 単純なようで大変難しいですよね。 健やかな毎日を過ごせるよう秀心寺(ほずみでら)の住職「尚徳(しょうとく)」がアドバイスさせて頂きます。 のべ6万人を鑑定し、
企業や政治家の役員・顧問を
務めてきた経験と、 占い師として17年、
カウンセラーとして15年、
僧侶として3年の積み重ね、 ロースクールで法律を学んだ
素養を活かした
「人生相談・総合鑑定」を
ご提供致します。

           
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当相談所は「運を知り、運を高め、運を活かす」ことを目的としています。 占い(命術・卜術・相術)によって自分を知る、運を読むだけでなく、心理学によって生きやすくするための方法、上手く現実と折り合いをつけるための知恵(法律、税など)、そして、仏教哲学により幸せに至る道を 「人生相談」「総合鑑定」として ご相談に乗らせていただき、お話させてもらいます。

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禅僧・尚徳からのメッセージ

人間は、悩みの尽きない生き物です。 幸せになりたいと願いながらも、そのようになれないのはなぜなのか。 私は20代後半からずっとその疑問に答えを出すべく、解決の糸口を探してきました。 そして20年近く占い師・カウンセラー、さらには僧侶として培ってきた中で一つの結論に至りました。 それは「調和を保つ」ことの大切さです。 この世は陰と陽のバランスの中で、さまざまな出来事が流転(るてん)して成り立っています。 自分「だけ」が幸せになることも、自分「だけ」が不幸になることも、 元来調和を欠いており成立し得ないようにできているのです。 たとえば「引き寄せ」が上手くいかない理由のひとつはこのマインドを無視しているところにあります。 あるがまま、今、ここ、自分(即今、当処、自己)の禅的感性をもって幸せを目指すところに運が開かれるものと、私は考えております。

ほずみ綜合相談所を開設しようと思った
きっかけ

私自身、迷い多き人生を送ってきました。 そこから救われたくて20歳から心理学を学び、法律を勉強し、占いを経て37歳にして僧侶になりました。 しかし、そのどれもが断片だけでは無力でした。 もちろんそれは私の学びが浅かったからかもしれません。 ただ、足掻きながらもがくうちにそれらを適切に組み合わせることで見えてきたものがあります。 33歳の時、突如として背負った多額の借金を返済する中で発見した「禅的引き寄せ思考」。 これに気づいてから、1年7ヵ月で全額完済に至ったという経験があります。 その真髄は現実世界と精神世界のバランス、外的アプローチと内的アプローチの調和にありました。 そこから心の平穏をようやく見つけるに至った次第です。実に20年かかりました。 もしも今、昔の私と同じように悩み、苦しみの真っただ中にある人がいるのだとしたら、教えてあげたい。 恋愛、仕事、お金、健康…… どんな悩みでもほんの少しでも良いので、ヒントになって欲しい。 おこがましいかもしれませんがそんな気持ちから本相談所を開設するに至りました。

ご相談・鑑定を通じて皆様に提供できること

  • あなた自身の唯一無二の価値を知り、自分を好きになること
  • 過去の苦しみが無駄なものでなく、意味があると気づくこと
  • どこからでもどんな状況でも、人は決意すれば幸せになれること
  • 誰かを幸せにできる力は、本来みんな持っているということ
  • 生まれてきた意味を知り、自分なりの夢を叶えられるということ
  • 都合のいい奇跡は起こらないけど、愛ある祈りは通じるということ
  • 習慣が持つ力を理解すれば、たいていの不運を避けて幸運をつかめること

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理想のコミュニティのカタチ

仲良きことは美しいことですが、人としてのエチケットやマナーは大切にしたいと考えています。 人それぞれ悩みや夢は異なっており、それはまさに10人10色。 人生を歩んでいく上で仲間は大切ですが、最後の最後では人は独りきりです。 他者を尊重しつつ、自分の幸せのために向上していける人たちと 穏やかなコミュニティをつくっていきたいと、私は考えます。

尚徳の目指す「偽善」とは

◆偽善の中の「善」 「偽善」という言葉の響きはあまり良くありませんが、それは「偽物」の善と読んだ場合であり、「人の為の不完全」な善と読めば、拙さの中にどこか可愛らしさもある親切心と読めます。 綺麗ごとすら掲げずに善や道徳をないがしろにすると、もはやエゴイズムがまん延する何でもありのルール無視の世界になってしまうのではないでしょうか。 「綺麗ごと」という言葉がありますが、いかに利己的な面が含まれた綺麗ごとであっても、「綺麗さ」でコーティングされている分だけ、実際それ相応に綺麗なもの。 人為的なかりそめの善でも、区分で言えばあくまでも善に入ります。このことを忘れなければ、人としての心の豊かさは損なわれないのではないでしょうか。そもそも、完全な善は神仏のみが体現しうるのであって、偽善は人の成す善の在り方そのものです。 ◆偽善と運 『法句経』において釈迦は 「不善なこと、己の損になることはやりやすい。ためになること、善いことは大変なし難い」と言っています。           私たちの心は完璧に善でない、でもそれを分かった上で、あえて善の方を選ぶ(つまり偽善)ができるのであれば、偽善の中に含まれる数パーセントの純善が自分の心の中に沁みついて、それが普通の感覚になり自分の心が、ひいては運が良い方向へ作り替えられていきます。 これと対を成すのが「偽悪(悪ぶること)」、あたかもわかってやっているという余裕を見せつける、アウトローとして自分をカッコよく見せるための悪。でも、これは運を下げる行為だと言えます。 ◆悪の本来の意味と不幸になる理由 仏教的には、悪というのはシンプルに「下手(パーパ)」という意味とされます。反対に善は、「上手(クサラ)」という意味です。 つまり幸せになる、運を良くするという意味で「善」であるというのは、欲や怒りや迷いに振り回されない上手で効率の良いやりかたという意味なのです。仏教における三大根本煩悩は「欲、怒り、迷い」。これを意識的にコントロールすることが、人為的“善”つまり「偽善」だと私は定義します。 ◆正直者は馬鹿をみない 「偽善=上手な生き方」と考えると、一般に言われる「正直者(善人)は馬鹿を見る」や「憎まれっ子(悪人)世に憚る」などの言葉は、筋が通らないことになりますよね。傍からどう見えたにせよ煩悩で苦しむかどうかという面から見れば、悪人は心重く善人は心安らかだからです。 そうであれば、偽善というのは良し悪しの価値基準ではなく、あくまで道徳を意識的に使いこなせるかに過ぎず、自分を充実させて、場合によっては周囲も心地よくすることができるツールに他ならないのではないでしょうか。           だからこそ「偽善」を身(行動)・口(言葉)・意(想い)の全てを一致させることができる人は、もはや限りなく善(煩悩に苦しめられない)と言える存在なのではないかと私は思います。 ◆今こそ“偽善”のススメ ただ、偽善はそう簡単なものでもなく、一夕一朝にできるようなものでもありません。そこで、自分を構成する背景を活かすことで、我(執着)を小さくすることが大切になります。 それが習慣化すれば自ずと偽善を成せるようになり、わざわざ修行を積んで悟りを拓かなくても自分なりの「セルフハピネス」つまり、自分自身で自分を癒し幸福感を得ることができるものと尚徳は思います。偽善とはやはり「人の為に成す、自分の幸せの為の善」なのです。

脇田尚徳